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千住の歴史

千住(せんじゅ)は、東京都足立区の町名。現行行政地名は千住一丁目から五丁目。また、広義には旧千住町一帯を指す。

千住の名の由来

 

  1. 新井図書頭政勝が室町時代に荒川で網にかかった千手観音を勝専寺に納めたから

勝專寺の寺伝によれば、1327年(嘉暦2年)に新井図書政次が荒川で網で千手観音像を拾い、この地を千手と呼んだことに由来するという。この像は息子でありこの寺の開基でもある新井兵部政勝によって同寺に移安されたとしている。

 

2.足利義政の愛妾千寿の出生地であったからという説

 

3.千葉氏が住んでいたからだという説

 

4.室町幕府8代将軍で銀閣寺を建てた足利義政の愛妾千寿の出身地であったからなど諸説あります。

 

千住と言う地名は足立区側からの呼び名で、荒川区からの呼び名は「小塚原」(こづかっばら)です。

この地名は1200年の歴史を誇る素盞雄(すさのお)神社創建の歴史と絡んでいます。

修験道を創設した役の小角(えんのおずぬ)のお弟子であった黒珍の住居に小高い塚があり、その塚にスサノオ大神とアスカ大神という二人の神様が現れたといいます。ここに現れた二人の神様を祀ったのが素盞雄神社で、神様が降臨した奇岩を「瑞光石」と言います。南千住地区の小学校が全て「瑞光」という名前を冠しているのは、この故事が由来です。そして、神が降臨した塚から「小塚原」の地名が起こったと言います(古塚ともいう。別説では円通寺源義家が奥州で得た首を埋めた塚を古塚といいそこから小塚原の地名が起こった)

円通寺古塚

南千住から素盞雄神社に向かう道をコツ通りと言いますが、よく刑場跡で骨が出たからコツ通りという人が居るのですが、小塚原から「コツ」という名が出たというのが定説のようです。小塚原は素盞雄神社の歴史と共に1200年もの歴史を刻んでいる場所でもあるのです。

小塚原村と並んで中村ができ、やがて小塚原町、中村町と呼ばれるようになりました。南千住7丁目に山王社、日枝神社がありますが、そこが元の中村町の鎮守様でした。

中村町日枝神社

安土桃山時代の千住

近代千住の始まり

天正元年(1573)千葉氏が事実上滅亡した事は近代千住の始まりとなりました。

 

関所の廃止による商業の自由化が商業拠点として千住を活性化しました。

街道の整備が進むと千住は交通の中心にもなってゆきます。

 

右の地図は当時を再現して見ました。手作りなので見苦しい点はご容赦ください。

いまの荒川はありません。足立葛飾の境には利根川が流れています。

この蛇行は両側の凸に成っている所を結んだ線が本当の川幅で約1kmあったようです。

その合流点で足立区側から張り出した半島状の地形の突端が三俣城です。

利根川の東は下総の国の葛西領になります。今の葛飾墨田区足立区のうち柳原

がこの地区に含まれます。荒川区側は石浜領です。足立区の大部分は淵江領でしたが、

先に述べたようにこの地区では専住村15貫文と三俣6貫文の地は淵江領185貫文

の中には含まれていないようです。赤線はのちに作られた熊谷土手(下で述べています)

ピンクは掃部堤(江戸時代に入ってから作られました、次の回で述べます。)です。

黒線は比較のため現在の常磐線と国道4号線を入れてあります。

 

これまでの奥州より来る道は草加の方から南下して花畑へ出ます。

今日の鷲神社付近を鷲宿といい内匠橋近辺の部分に町があったようです。こから南下して利根川堤(いまの小菅刑務所の北側付近)にあたり

堤に沿って回り込み柳原土手を通り関屋町にあった関所にたどり着きます。

別に浦和から南下して舎人、伊興を通り本木の中曽根城(千葉氏の淵江城です)

の城下を通って元宿(中心は今の荒川の真ん中付近でした)、千住3・4丁目(まだありません)

付近を経由して柳原土手にあたり関所に至る道(後の赤山街道の前身です)もあったようです。

関所は江戸氏によって頼朝の命令で設置された後、その衰退後は千葉氏が支配したと考えられます。

関所の付近には和田宿という宿場があったとされます。今日の関屋町です。

延徳地理全図という安政時代の写本には和田宿を梅田付近とする図がありますが

後世の影響が多すぎるようであまり信憑性がありません。

ここに関所が置かれたという事は他の渡河点は全て禁止になっていたということです。

街道は千葉氏の根拠地三俣城の前で利根川東武堀切駅の東側鉄橋付近)を渡り墨田に出ると

松戸市川方面からくる道(元の東海道または鎌倉街道下道)を合わせて

石浜の渡しですぐに再度隅田川を渡り、千葉氏の根拠地石浜城の城下を抜け

隅田川続いて海岸線に沿って浅草江戸方面へ向かったのです。

余談ですがこの街道が日比谷入江を迂回して桜川(後の外堀)を渡る所にあったのが霞ヶ関です。

つまり街道は完全に千葉氏の支配下にありその収入源であった事が想像されます。

関東一円の信仰を石浜神社が受けていたという事もうなずけます。

 

天正2年(1574)北条氏政は今日の吾妻橋付近から埼玉県熊谷市久下に至る

荒川堤防を築きました。全長16里高さ11尺といわれるこの堤防は

それまでの自然堤防をつないだものでまた完成までに数年を要した事と思われますが

最近まで熊谷堤または熊谷土手の名で親しまれていました。

これが突破口となりました。千葉氏は再興されず石浜、三俣の拠点は失われ

北からの渡河点は本来の(八幡太郎以来の)千住大橋の位置に戻りました。渡裸の渡しと言われたそうです。

そして天正5年頃千住河原町のやっちゃ場が成立し野菜類の集荷拠点としての千住が始まったのです。

千住で最も古い商家は天正15年の創業と言われています。

天正18年(1590)7月豊臣秀吉は小田原に北条氏を攻めこれを滅ぼしました。

北条領をもらった徳川家康は同年8月1日を以って江戸に入城し千住は事実上の徳川時代に入ります。

この天正18年8月1日という日は徳川幕府の記念日とされ八朔の名で知られました。

徳川家康はすぐに街道の整備を始めました。

まず文禄3年(1594)9月千住大橋が完成しました。

 

右の絵は江戸名所図会から千住川の図を引用しました。

文字は荒川の下流にて隅田川浅草川の上なり隅田川上流

とあります。中央に千住大橋が描かれています。

これによって当時この部分の荒川を、

千住川と言った事が知られます。

 

この部分を旧考録から引用してみます。

(読みやすいように若干直しています。)

文禄2年当国豊島郡足立郡の間、

荒川に板橋御普請始まり翌3年に出来す。

橋の長さ66間巾4間但し京間。橋柱は槙を用ゆ、高欄付なり。

名づけて千寿大橋と云う、ご普請奉行は伊奈備前守殿也。

そして慶長2年(1597)千住は継場村に指定され宿場町としての第一歩が始まりました。

本格的な都市整備と街道の完成は幕府になってから始まります。

次回は江戸時代へ入ります。

千住の歴史のトップへ   江戸時代へ

町の発展と宿場町

 江戸時代 〜 千住宿の整備

徳川家康が江戸に入り、千住大橋を架け五街道を整備し、日光道中奥州道中の最初の宿場町として千住宿が整備されました。

1594年、徳川家康が墨田川に架けた最初の橋が千住大橋であった。このことからも千住が江戸の北の入り口として重要視されていたことが分かる。

その千住宿も年々栄えて、江戸四宿最大の町になって行きます。

 

千住は日光街道奥州街道の宿場として発展した。江戸から一つ目の宿場であり、江戸四宿の一つであった。元の千住宿は1-5丁目に分けられて本宿、最初に追加された3町は新宿、対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれていた。

 

拡大した千住宿は本宿、新宿、南宿と3つの宿場から構成されるようになるのですが、千住宿千住大橋を越えて小塚原町、中村町まで拡がりを見せたのでした。小塚原町、中村町は通称で千住南宿、後に千住南組と呼ばれる千住宿の一部となったのですがあくまで通称でした。明治に入ってから小塚原町と中村町が合併して千住南組が正式な名称となりました。

この時に足立区側の千住本宿が千住北組という地名になったので、千住北組=北千住、千住南組=南千住の由来が出来たのです。

 

 

いわゆる「岡場所」の一つであり、当時の船頭たちが歌った「千住節」の一節「千住女郎衆はいかりか綱か 上り下りの舟とめる」というのはこれを指している。また江戸市街の喉もとで奥州街道水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったといわれている。

松尾芭蕉奥の細道は、元祿2年(1689年)深川の芭蕉庵を出発し、「門人に見送られ、彼等と千住で別れる時に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠み、それを「矢立てのはじめ」として、そこから旅が始まる」という[5][6]。

また、練馬のダイコン、目黒のタケノコ、尾久のゴボウなどと並んでネギの名産地として有名であった。

明治以降郡区町村編制法の施行を経て、南組を東京府北豊島郡南千住町、北組、中組は併合して同府南足立郡千住町とし郡役所を同町に置いた。

1871年明治4年)7月17日、千住黴毒院(ばいどくいん)が開設され、宿娼妓に梅毒検査が行われている。『経済及統計』(内務省明治23年2月)によれば、1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも二廓四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。1881年明治14年)10月11日、三条太政大臣、岩倉右大臣が当宿に東北巡幸帰還中の明治天皇を迎え、大隈重信の免職と国会開設の命令を受けている(明治十四年の政変)。

また水利の好条件を生かし、官営千住製絨所・隅田川駅(貨物駅)・千住火力発電所などが置かれ、もって舟便のよいことが近在農村に広く知られるようになり、昭和20年代まで青物、川魚の朝市が毎朝のように開かれた。

1930年(昭和5年)の国勢調査によれば、北豊島郡南千住町の人口は56,017人で郡内20ヶ町村中7位の規模であり、南足立郡千住町は69,085人で郡中最大だった。1932年(昭和7年)10月1日、両町とも東京府東京市の一部となり消滅した。

【北千住】
  宿場町通り
足立区の南部に位置する北千住エリアは、その昔、宿場町として栄えた歴史がある街です。その後は工場地帯として産業を支え、近年になると大型商業施設の建設や大学の誘致などの再開発が進み、古き良き景観を残しつつも新たな文化を取り入れて発展し続けています。

 

 

日光街道 千住宿
北千住エリアは、江戸時代、旧日光街道の宿場町「千住宿」として栄えていました。「千住宿」は、旧東海道品川宿、旧中山道の板橋宿、旧甲州街道内藤新宿(現在の新宿)と並んで江戸四宿として数えられ、その中でも最大の人口を誇っていました。現在、旧日光街道は「北千住西口商店街(サンロード商店街)」となって買い物をする人々で賑わっていますが、今でも宿場町であった歴史を垣間見る事ができます。

千住宿」は、1689(元禄2)年に松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発した場所としても知られています。芭蕉はこの地、旅の始まりである一句として、「行春(ゆくはる)や鳥啼魚(とりなきうお)の目に泪(なみだ)」と詠み、およそ半年の旅に出ました。そのため、現在もエリア内には芭蕉の句牌などが点在していています。また、エリア南に位置する「千住大橋」には、芭蕉の像などが展示されている「千住宿奥の細道プチテラス」や、地漉(ぢす)き紙問屋・横山家の内蔵を移築したギャラリー「千住宿歴史プチテラス」などもあります。

 

北千住駅
2000年代に入り、北千住エリアでは着々と再開発が進んでいます。2004(平成16)年、「北千住」駅前に「北千住マルイ」を核テナントとした複合ショッピング施設「千住ミルディス」が開業。併せて、「北千住」駅周辺にペデストリアンデッキも設置され、駅と各ショッピング施設が直結しました。これにより利便性はさらに高まり、多くの人々で賑わうスポットになりました。また、駅の東西には多くの商店街ものびているため、大型ショッピング施設から個人商店までが揃う、理想的な買い物環境が広がっています。

交通の歴史

1594(文禄3)年に「入間川」(のちの「荒川」、現「隅田川」)に初めて架橋された「大橋」(現「千住大橋」)を端緒とし、1624(寛永元)年に徳川家康を祀る「日光東照宮」へ至る「日光街道」の整備が開始されると、翌年には基点の「日本橋」から見て最初の宿場町となる「千住宿」が建設・指定された。これにより、水路と陸路が交わる交通と物流の要衝となり、多くの人と物、さらに文化が集まるようになり、商業も盛んになった。

1889(明治22)年に開業した「千住馬車鉄道」は、「千住茶釜橋」(現在の「千住新橋」付近)と越谷を結んだ。馬車鉄道とはレールの上を馬に引かせた車両が走るというもので、運行はわずか4年ほどであった。

千住における最初の本格的な鉄道は、1896(明治29)年に開業した「日本鉄道」の土浦線・隅田川線(1901(明治34)年に海岸線へ改称)で、1906(明治39)年に国有化、1909(明治42)年の路線名制定で常磐線となった。旅客輸送のほか、貨物輸送においては、当時の主要なエネルギー源である石炭を「常磐炭田」から東京へ輸送する役目も担った。

1899(明治32)年には「東武鉄道」が北千住を起点に久喜までの路線(現・東武スカイツリーライン)を開通。1902(明治35)年以降、都心方面への延伸も進められた。路面電車の東京鉄道(のちの市電・都電)も明治40年代に千住線・三ノ輪線が南千住付近まで延伸されるなど、整備が進められ、買収され東京市電となったのちの1912(大正元)年には千住大橋まで、さらに震災復興期の1928(昭和3)年には「千住大橋」を渡り千住四丁目まで延伸されている。王子電気軌道も1913(大正2)年に三ノ輪(現・三ノ輪橋)まで延伸。1931(昭和6)年には、都心乗り入れを目指していた「京成電気軌道」(現「京成電鉄」)が新線を建設、北千住の南に「千住大橋駅」と「京成関屋駅」を開業した。このように、戦前までに千住一帯では鉄道の整備が進み都市化もさらに進んだ。

江戸時代の「日光街道」「奥州街道」は明治期になると国道となり、震災復興期には「千住大橋」の架け替えと道路の拡幅・バイパスの建設も行われた。北千住地区においては、大正期の「荒川放水路」の建設により「千住新橋」「西新井橋」が建設されたほか、放水路建設により通水が無くなった用水「西掃部堀」の跡を、「大正記念道」(現「大正通り」)とするなど、道路の整備も進められた。
MAP 19(大正通り)

 
写真は1962(昭和37)年、地下鉄日比谷線が「北千住駅」まで開通した時の様子。
戦後も千住の鉄道の整備は続いた。「帝都高速度交通営団」(現「東京メトロ」)は1961(昭和36)年に地下鉄の日比谷線を開通し「南千住駅」を開業、翌年「北千住駅」まで延伸し東武伊勢崎線との直通運転も開始した。1969(昭和44)年には千代田線も開通、「北千住駅」を設置したほか、2003(平成15)年には半蔵門線東武伊勢崎線に乗り入れるようになり、「北千住駅」からは3路線の地下鉄が利用できるようになった。

2005(平成17)年にはつくばエクスプレスが開通し「南千住駅」と「北千住駅」が開業、2015(平成27)年にはJR常磐線上野東京ラインとして「東京駅」「品川駅」まで乗り入れるようになるなど、千住は現在も交通の要衝としての機能を強化しつつ保ち続けている。

 

 

1896(明治29)年

日本鉄道土浦線・隅田川線の開通

「日本鉄道」は土浦線・隅田川線(のちの海岸線、現・JR常磐線)の土浦・田端間を開業。この時、千住には北千住、南千住の2駅が開設された。

2005(平成17)年

つくばエクスプレスが開通し、5路線が乗り入れるようになったことで交通の便もさらに向上。

2014(同26)年

4月には、エリア南にある京成本線千住大橋」駅前に、複合ショッピング施設「ポンテポルタ千住」も誕生しています。今後も「本町センター通り商店街」の千住一丁目地区の再開発が予定されており、さらなる発展も期待されています。

 

北千住駅
「北千住」駅は、2005(平成17)年、つくばエクスプレスが開業したことにより、JR常磐線東武スカイツリーライン伊勢崎線)、東京メトロ日比谷線と千代田線と合わせて5つの路線が通る一大ターミナル駅となりました。JR常磐線を利用すれば「上野」駅や「柏」駅へアクセスできるほか、2006(平成18)年には東武スカイツリーライン伊勢崎線)に半蔵門線の乗り入れが開始したため、「北千住」駅から渋谷方面へアクセスすることもスムーズです。2005(平成17)年につくばエクスプレスが開通し、「秋葉原」駅などへのアクセスも便利になり、交通利便性がますます高まりました。

東京メトロ日比谷線を利用すれば「銀座」駅や「恵比寿」駅、東京メトロ千代田線を利用すれば「大手町」駅や「表参道」駅など、都心部へのアクセスも便利です。また、「北千住」駅の南には京成電鉄本線「千住大橋」駅や「京成関屋」駅があるため、「京成上野」駅などの都心方面はもちろん、「成田空港」へも1時間かからずに行くことができます。
掲載日
2018/08/31
本記事は、(株)ココロマチ が情報収集し、作成したものです。記事の内容・情報に関しては、調査時点のもので変更の可能性があります。